戦後どのように変わってきた?人事の歴史


当コラムではこれまで、人事に関する最新の話題をピックアップしてその内容を詳しくご紹介してきました。

さて、今回は趣向を変え「過去」に目を向けて、人事や労働環境・条件の変化などの歴史を振り返ってみたいと思います。

…今のような人事・労働体系ができるまでには、一体どんな歴史があったのでしょうか?

目次

  1. 「Personnel Management (人事管理)」の由来
  2. 様々な評価指標
     2-1.賃金体系の発展
     2-2.職務等級制度の不発
     2-3.個人の能力を重視する環境へ
  3. 多様な働き方
     3-1.年功序列制度から成果主義へ
     3-2.ワークライフバランスを重視
  4. まとめ



「Personnel Management (人事管理)」の由来

そもそも人事(人事管理)という言葉生まれるきっかけとなったのは、18世紀半ばから19世紀にかけてイギリスを中心に起こった産業革命です。

製鉄業の技術革新、蒸気機関の開発による動力の飛躍的な向上によって「工場制」の機械工業が確立され、労働者は雇用者に雇われて賃金を得るために働くという仕組みが急速に広まりました。

その際に「支払った賃金と個人情報の記録」の専門担当者のことを、Personal(ーソナル:「個人」の意味)をもじってPersonnel(パーソル:意味同じ)と呼ぶようになり、20世紀始めに、「人事管理」を意味する「Personnel Management (パーソネル・マネジメント)」という言葉が誕生し日本にも広まりました。
※太字はアクセントの位置

その際の「Personnel Management (人事管理)」の内容は、雇用、勤務規定、評価、賃金、福利厚生などの労働条件を単純に定めたものでした。

現在では、Personnel Managementとは言わず「Human Resource Management(ヒューマン・リソース・マネジメント)」略して「HRM」もしくはと言われるようになり、その内容も「多様化する働き方の中で様々な人材をどのように活かすか」というところがポイントとなり、文字通り「Human Resource(人的資源)」が重視されるようになりました。



様々な評価指標




賃金体系の発展

戦後の日本は焼け野原の状態で、労働市場には仕事を求める人が殺到して賃金も著しく下がり、国民は食べるものにも困っているという状況でした。

そのような状況の中で生活の安定を多くの人が望むこととなり、1946年に電力系の組合である「日本電気産業労働組合協議会」が賃金の仕組みとして「電産型賃金体系」というものを提案しました。その内容は、「基本賃金」と「地域賃金」によって「基本給」が算出されるというものでした。

「地域賃金」、つまり「各地域の経済状況や労働状況を考慮した上で賃金を調性する」という考え方を取り入れたのは当時としては革新的でした。さらに基本賃金は、物価と連動し本人と家族の分も考慮した「生活保障給」、個人の能力や経験に基づく「能力給」、勤務年数にあわせて昇給していく「勤続給」から構成されていました。・・・終戦直後にはかなり理にかなった賃金体系が確立されていたんですね。

1952年頃には企業の経営も安定し始め、賃金体系も上記の「電産型賃金体系」をもとに発展していき、「学歴別賃金体系」という要素も一般化し学歴の重要性が高まりました。




職務等級制度の不発

その後、日本が高度経済成長を迎えると、労働力不足により賃金が上がり、新卒採用時の年収も相対的に引き上がりました。

また景気がよくなったため、今までの生活保障を主体とした賃金体系では社員のモチベーションをたもつことが難しくなりました。

そこで東京電力を中心に「職務等級制度」が導入されました。職務等級制度とは、各等級ごとに担当する仕事の難易度や責任の大きさを決め、等級が高いほど給与が高いということになり「電産型賃金体系」のような格差をなくす考え方とは正反対の考え方が生まれました。

結果的にこの仕組はそれほど普及せず、「職務ごとに給与を決める」という考え方よりも、「職務を行う能力」が重要視されるようになっていきます。




個人の能力を重視する環境へ

そうした「職務能力」をどのように評価し、いかにして昇給や賞与で社員のモチベーションを上げるかということを考え抜いた末に大手企業が採用したのが「職能(しょくのう)等級精度」です。これは、各社員に求める「職務遂行能力(職能)」を等級で区分し、その等級ごとに給与を設定するというものです。

つまり、高い等級にいることが「そのレベルの仕事ができるから」ではなく、「そのレベルの仕事ができるようになるはずだ」という期待に準じているものとなり、どんどん等級が上がっていくことは会社からの期待に応え続けているということになり、企業もその評価指標から給与を引き上げるという明確な一連のルールが整備されました。

このような「個人の可能性を引き出す」という考え方は、1986年に施行された「男女雇用機会均等法」にもつながりました。性別による取り扱いの格差をなくし、女性がその能力を十分発揮できるような環境づくりを企業が目指すようになったことも歴史的に重要なポイントだと言えます。



多様な働き方




年功序列制度から成果主義へ

多くの企業が採用した「職務能力」による評価は、1980年代の高度経済成長の豊かさでその影をひそめ、個人ごとの評価を軽視して勤続年数や年齢に応じて自動的に昇格・昇給を繰り返す、いわゆる「年功序列制度」という安易な方向に企業全体が変わっていってしまいました。

これにより職務の能力と給与にズレが生じ、さらにバブル崩壊による業績の縮小に伴って自動的に昇給・昇格を繰り返す単純な仕組みを見直す必要が生まれました。

そして、その代替案として社員のモチベーションを高める方法として「成果主義人事精度」が導入されることになりました。これにより、より短期間の個人ごとの成果に応じてインセンティブやボーナスが多く支払われるようになったのです。




ワークライフバランスを重視

しかし2000年代初頭から、前述の成果主義のデメリットが問題視され始めます。具体的には「成果さえ出せばいいという発想により、途中の工程が軽視されてしまった」「人材育成が直接の成果につながらないため、上司が部下の面倒を見る機会が減った」などの点が挙げられます。

さらに、金銭的報酬が働く目的になりつつある状況を問題視する声、育児介護休業に関する制度の推進などのワークライフバランスを重視する声が高まりました。

これにより企業は過剰な成果主義を撤廃し、フレックスタイム制の導入、長期休暇取得制度、週休3日制などを採用しました。また、金銭面だけではなく、福利厚生が充実した会社であるということを求職者にも積極的にアピールするようになりました。

このような紆余曲折を経て、今日の人事活動では労働に対する報酬という単純な要素だけではなく、社員のワークライフバランスや、多様な働き方という様々な要素が交わった中で適切な判断と対応を行うことが成功のための重要なポイントになっています。



まとめ

ここまで、人事や労働環境・条件の変化などの歴史を振り返ってみました。

まとめると、始めは賃金・等級という単純な条件で捉えられていた人事活動ですが、時代が進むに連れて個人の可能性やワークライフバランスなどのより複雑な要素へ対応することが人事活動の大切な要素へと変わってきました。

過去の人事活動の課題を解消した現代の人事スタイルにキャッチアップし、少しでもよい成果を得られるとよいですね。

今回の記事が人事活動についての参考になれば幸いです。

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ライター:井上